瓶詰めにされた世界
「かわいそうだから」
彼は瓶の中に捕らえられたゴキブリをまじまじと見つめた。
瓶の存在意義
瓶の中には何を入れるべきなのか?
コーラやオレンジジュースといった液体やピクルスなどの漬物を入れることは知っている。瓶とはそういう用途に使用するものだからである。
彼が見たかったのはそのような通常の使い方とは違った、別の存在意義みたいなものを追求する、瓶の中にある空間そのものではなかったか。
瓶の中の小さな世界
ぼくと彼は仕事で知り合った。
これはその彼と3か月ほど立川にあるアパートで一緒に暮らしていたときの話である。
風のない夏の日に彼はゴキブリを一匹、瓶に詰めてぼくの前にニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべながらそっと置いた。
「どう思う?」彼は言った。
ぼくは早く外に逃がすか、駆除してくれと言った。
でも彼はどうもする気がないらしく、ただじっと瓶の中のゴキブリを眺めていた。ゴキブリも触覚を上下に揺らしながら、じっと彼を見ていた。ぼくも彼と同じように小さくて狭い瓶の中にいるゴキブリを観察した。外では烈火のごとく走り回るゴキブリも、瓶の中では借りてきた猫みたいに大人しくしている。まるで模範囚のように。
今、ヤツ(ゴキブリ)の生死は彼が握っている。瓶の中など小さな世界だ。彼はその小さな世界の神として君臨している。先ほど就任したばかりの神として。
「殺すの?」ぼくは聞いた。
彼はぼくの言葉を無視して、瓶に集中している。
「このままだと空気穴が空いてないから、酸欠になるよ」
彼は無言で瓶の蓋を少しだけ緩めた。
瓶詰めにされる世界
瓶の中にラブレターが入っていれば、ロマンティックな恋が始まるかもしれない。
しかし彼が瓶に詰めたものは、そんな恋物語ではなかった。
彼がもし外に逃がすという選択をしていなかったら、無用な殺生を、たとえそれが虫であっても、彼とぼくは犯すことになっていただろう。
ガラス一枚隔てた瓶の中で、ヤツは迫りくる未知の恐怖に襲われていた。ゆっくりと触覚を上下に揺らしながら、鋭く繊細な本能が感じ取ってしまう恐怖という感情によって。
ぼくは思い出し、そして考える。
徐々に酸素が薄くなっていく瓶の中で、黒光りする意識の塊がぼくの心と同化してくる。瓶の中からこっちの世界を見ていたのはヤツではなかったか。それとも彼だったか。このぼくの住む小さな世界では神のようなものに自由を奪われ、拘束され、働かされ、生活させられているのではないのか。透明な空間が音を立てずにそっと、ぼくの前に置かれた、この瓶詰めの世界で。
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