遊びまくる!

無職ブロガーのカオスな日記

平凡な日常に石原さとみを登場させたとき

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石原さとみは今や芸能人で一番きれいな女性という位置づけにある。

(いないとは思いますが、万が一、全国で石原さとみより私の方がきれいだと、おっしゃる方がおりましたら、ご連絡お待ちしております。私が公平な第三者の目で審査させていただきます)

 

注:ここでは文章的にあえて「さん」付けはしておりません。

好みはいろいろ

これは好みにもよるので、この顔が好きではない、好みのタイプではないという人もいるだろう。


どんな女性が好きかと問われれば、人は、顔などどうだっていい!一番大事なのは性格だ!とか、癒される(安心できる)かどうかだ!とか、自分と合うかどうかだ!などと好き勝手いう。言いたいように言わせておけばいい。

 

ちなみにぼくはといえば、顔がきれいだとか、顔がかわいいだとか、顔が石原さとみに似ているだとか、そういうことはどうでもよく、一番大事なのは、顔ではなく、見た目だと思っている。

平凡な日常

仕事とはほぼルーティーンであり、毎日が平凡の集まりで、凡庸の集合体で、ただの時間つぶしであり、時間の無駄に限りなく近い、限りなく無駄に近いブルーな気持ちを感じながらの作業。それが労働なのである。

 

平凡な労働に染まっていく自分に恐怖すら感じるが、その恐怖から逃れることは、お金という信用の悪魔の呪いによって、精神が拘束されているように、簡単には解くことはできないのだ。

石原さとみを登場させる

ここで登場するのが石原さとみである。

何もない平凡な日常に石原さとみを投げ入れる。するとどうなるか。たとえば、今ブログを書いているぼくの後ろに石原さとみがいるとしよう。ほのかに石鹸の香りを漂わせながら。

 

・・・だからどうだというのだ。石原なんちゃらがすぐ後ろに立っていようが、ほのかに石鹸の香りを漂わせていようが、ぼくがブログを書くことには変わりない。たとえそれが石原さとみではなく、「あくましんかん」が鉄の棍棒を振り上げていようとも、たとえ「ハハキトクスグカエレ」の電報が電報配達夫によって、自宅に届けられようとも、ぼくはブログを書くだろう。「ええい、しゃらくさい」と言いいながら。

再度、石原さとみを登場させると

これには参った。結論から言わせてもらうと、降参だ。

 

石原さとみのおな~り~

 

 

とりあえず飯を奢る。その流れでプレゼントを買うことになるだろうし、広い新居に引っ越さなくてはならないだろうし、新しいベットを新調することになるだろうし、小洒落たイタリアンレストランなどの予約をしなくてはいけなくなるだろう。直ちにだ。

 

 

石原さとみの出現によって、非日常的な生活が続くとなると、いずれは奴隷と貴族のような主従関係にならざるを得ない。それは小さな資本主義の誕生となり、双方の立場は王様と奴隷の関係となる。資本主義国家の中の小さな資本主義の建立によって、ぼくが汗水たらして働いた、いくばくかの給料は、石原さとみという王に献上することになる。

 

しかし、石原さとみともなれば、そんなはした金などいらぬと、押し返されるのではないか。あるいは「あなたに養えるほど私は安い女じゃないのよ」と言われるのがオチなのではないか。いまのぼくの頭では、どのように、どの角度から考えたとしても、妄想の域を出ることはない。

 

 

長くなったが、石原さとみを平凡な日常に登場させると、資本主義について考えさせられる。多少強引ではあると思うが・・・。 労働の上に成り立つ幸福な社会について、これでいいのかと考えさせられた。

 

 

ブログを書き終わり、ふと、後ろに視線を感じた。もしかしたらと思い、振り返ってみたがそこには何もない日常があるだけだった。ほのかに石鹸の香りを漂わせて